せとるこの日々

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改葬許可証の取得

改葬許可証の申請に必要な書類が分かり、コピー可だったので従妹に遺骨処理許可、火葬許可書、死亡診断書をPDFで送って!とメールしたらすぐ送られてきた。
きっと「申請はまだか、まだか」と、うずうずしながら待っていたんだろうなあ。

その他の必要書類もすべて印刷し、伯父へ送った。
申請には伯父のサインが必要だった。
また墓地の管理者として自治会長のサインも必要だった。

私の家から伯父の家までは高速を使って車で1時間ちょっと。
自治会長の家までは高速を使って2時間ちょっと。
自治会長の家から滋賀県とある町の役所まで30分くらいか。
車で行けば1日で終わる。

だが「郵送可」とあったので、「窓口には行くものか!」とすべて郵送で終わらすことにした。
私が書類を伯父に送る→受け取った伯父がサイン、必要書類だけ自治会長へ→自治会長がサインして返信→伯父が全部の書類を入れて送付→市役所、という流れだ。
自治会長宛ての封筒、自治会長に返信してもらう伯父宛ての封筒、申請書を提出する市役所宛ての3つの封筒を同封した。

速達の料金分の切手を貼れば、ポスト投函でも速達で届くという説明を見つけたので、すべての封筒に速達分の切手を貼った。

先日、記念硬貨を鑑定してもらうときに切手シートも持って行った。
半値で買取と言われたが、使うこともないから、と数枚売ってきた。
まさかこんなすぐに使う日が来るとは。

家にある切手をかき集めたらとりあえず足りた。
必要書類が分かった日に準備して翌朝にはポスト投函した。

投函した翌日の夜、伯父に電話したら書類は届いていた。
伯父のサインと自治会長のサインが必要なことを説明して、同封の封筒を使うように頼んだ。

伯父「分かった。明日、郵便局行ってくるわ。」
私「ポスト投函でいいよ、届くから。」
伯父「いや、おまえが送ってくれたやつ75円足りんかったんだわ。」
私「え・・・。」

バタバタしてちゃんと計算できていなかったか。
切手の種類もバラバラだったし。
自治会長宛ての切手代が足りなかったら失礼だ。
「ごめんね、郵便局で出してください。」
とお願いした。

その5日後、伯父に電話したら、
自治会長から返信来たから、昨日、市役所に書類を送った。
切手代は自治会長の時は足りたけど、市役所宛ては10円足りんかった。」
とのことだった。あはは、また足りなかった。

許可証の交付まで1週間くらいと聞いていたので、6日後に伯父に電話した。
書類の不備でやり直しだったら、ブログに愚痴を書きまくろう、と意気込んでいたが、
「昨日、許可の通知が届いたぞ。」
と伯父が言った。

おおー、問題なかったか。

問い合わせから苦節3週間。
改葬許可証というものの存在と取得は面倒ということを学んだ。

我が家はそのうち墓じまいをする予定でいる。
改葬許可証は墓じまいの時にも必要らしい。
将来、また面倒な手続きをする日がやってくるんだな。

改葬許可証

伯母の遺骨を受け入れるにあたって手続きが必要ということが分かり、ネットで調べてみた。
お墓の引っ越しをする時は『改葬許可証』というものが必要らしい。

だが『火葬後に自宅で保管していた遺骨を墓地に埋葬するケースで届けは必要ありません。』ともあった。
じゃ、いらないでしょ。
海外からだったら必要なのか?

滋賀県とある市とのメールのやり取りは問い合わせを送った後往復3回あった。
2回目に市役所から来たメール。
『1.お墓をお世話する方の家に遺骨を置かれる場合、そちらの自治体で改葬許可を取ります。
入国後すぐお墓に納骨されるならこちらでの手続きとなります。
2.お問い合わせの墓地は自治会が管理しています。
その町の自治会長に連絡を取ってください。
市役所まちづくり推進課に問い合わせるとわかります。』

すぐお昼休みにまちづくり推進課に電話で問い合わせた。
「個人情報になりますので電話口の方の電話番号とお名前をお願いします。」
と言われ、電話番号と名前を告げた。
「少々お待ちください。」
調べているのか3分くらい保留音が鳴っている中待った。
これって折り返しでよくない?と心の中で思った。

墓地のある地区の自治会長の連絡先を教えてもらい伯父にそこへ連絡してもらった。
夕方、伯父にどうだったか聞いた。
「電話したら知り合いの息子だったわ。どうぞどうぞって言われたぞ。」

まっすぐお墓に納骨しに行くこと、自治会長の許可を取ったことを書いて送った。

3回目に来たメール。
『提出物一覧(郵送可)
1.改葬許可申請
2.改葬受入証明書
3.遺骨処理許可
4.火葬許可書
5.死亡診断書
6.経緯書
3から5はコピー可。原本と日本語訳(個人翻訳可)。』

これって・・・。
2回目のメールも3回目のメールも全部最初のメールで書ける内容じゃない?と思った。
とある市からの返信はいつも1営業日を挟んだ翌日に来た。
私の住む町は問い合わせした当日か翌日に返信は来る。
人手不足なのか?

この3回のやりとりで祝日もあり10日が過ぎた。
提出物を知るまでに10日かかるって・・・。

さすがクセの強い母の育った町だけある。


分骨の手続き

亡くなったアメリカの伯母の納骨をすることを了解したところ、いとこからメールが届いた。
『墓地の住所と名前も教えてください。書類に必要なので。』

母の実家の墓地なんて小学生の時の祖父の葬儀以来行ったことがない。
記憶の片隅にも無かった。
滋賀県にあるくらいしか知らない。

毎度のことながら伯父に電話した。
「はっきりした住所は分からないけど、公営の墓地はあそこだけだから、滋賀県とある市○○町で大丈夫やろ。
墓地の名前も町名で通じるぞ。」

言われた通りそのまま連絡した。
その後、『死亡診断書と火葬許可証と遺骨処理許可を取りました。日本で必要な手続きがないか確認して欲しい。』とメールが来た。

アメリカの書類があればそれで終わりだと思っていたが、そうではなかったようだ。
滋賀県の、とある市に問い合わせのメールを送った。
私は墓地の場所を知らないこと、伯父が場所は知っているが住所を知らないこと、その公営の墓地に伯母の納骨をしたいこと、死亡診断書・火葬許可証・遺骨処理許可は従妹が取った等説明し、必要な手続きがあるか問い合わせた。

返信がきた。
『1.日本で今後この墓を世話されるのはどなたですか。
 2.この町の墓地は△△会社の東側にありますが、そちらでしょうか。(市営ではありありません)
 3.納骨について墓地の管理者さんと話しをされてますか。
 4.現在遺骨はどちらにありますか。
 5.書類についてはどちらで発行されたものですか。』

Theお役所といった感じの文面だった。
公営墓地だと思って問い合わせたのに、『墓地の管理者さんと話しをされてますか。』との質問に「知らんがな!公営だって聞いてたから市役所に問い合わせたんじゃ。」とツッこんでしまった。
でも公営ではなかったらしい。

伯父に電話した。
「そんな手続きが必要なんか。」
伯父と私の当初の考えでは送られてきた遺骨をお墓に持って行って収納して手を合わせて終了だった。
向こうで発行した書類もあるし。

面倒くさいから我が家のお墓に納骨しようかと一瞬思った。
お寺さんとはいい関係だし、お役所もいつも親切だからすぐ手続きが済みそうだ。
あ、でも我が家は伯母の実家では無かった。残念。

伯父に墓地の管理者を探してもらった。
親戚がそこの町で住職をしてるらしいのでその人に聞いたらしい。

「特に管理者とかいなくて個人の持ち物って言われたぞ。」
伯父が言った。

伯父が墓を世話すること、△△会社の横である墓地だと確認したこと、個人のものだということ、遺骨はアメリカにあり書類もアメリカで発行したものだと返信した。

テレビで日系外国人がおばあちゃんの遺骨を納骨する、というものを見たことあるが、お墓の持ち主に確認だけだった気がした。
実際はもっと様々な手続きをしていたんだなあ、と実感した。

いとこからのメール

アメリカの伯母の家に行きたいから連絡先を教えて欲しい、と妹からショートメッセージが来た。
伯母の旦那さんと娘さんのメールアドレスを教えた。
あとは自分でやってくれ、と妹を受信拒否設定にした。

それから2週間ほど過ぎたところでその従妹からメールが届いた。"Mom passing"というタイトルだった。
伯母が亡くなったようだ。

伯母は90代半ば。
20代でアメリカの人と結婚して西海岸に渡って70年くらい。
送られてくる子供、孫、ひ孫、玄孫に囲まれた写真はいつも笑顔だった。
知らない土地で暮らすのは大変だったろうが旦那さんと子供たちが介護して自宅で最期を迎えたらしい。
いい人生だよなあ。

葬儀で伯母の父と母の名前が必要で教えて欲しいと書いてあった。
私達の祖父と祖母の名前・・・。
思い出せない・・・。

岐阜県に住む伯父に電話して祖父と祖母の名前を聞いた。
祖父の名前はすぐ教えてくれた。
祖母は若い頃に亡くなっており、その後に後妻さんが入った。
私はその人を「おばあちゃん」と呼んでいた。

伯父はその後妻さんの名前を言った。
「そうじゃなくて、本当のお母さんの名前。」
と私が聞き返すと伯父は「何だったっけ。」と言って、大声で奥さんに尋ねた。
奥さんは覚えていたようで、「ああ、そうだった、そうだった。」と言って教えてくれた。

物忘れとはこういうものなんだなあ、と実感した。

返信すると
『パパが何も準備していなくてとても悲しんでいたけど、返信が来て喜んでいます。』
とメールが来た。
『ママの遺骨の半分を日本の実家のお墓にも納骨したいけど、できますか?』と続きがあった。

多分、自分の母だったら「面倒くさいから断っとき。」と言うだろう。
岐阜の伯父に電話して聞いたら、「少しなら入るぞ。」と言った。

伯父が言ったことをそのまま伝えた。
『よかった!じゃあ、手続きを進めて分骨の用意をしたら連絡しますね。』
というメールが来た。

伯母の遺骨を持ってくるのか送ってくるのか今のところ聞いていない。

最初のメールの宛先には見覚えのないメールアドレスがあった。
多分、妹のメールアドレスだろうか。
2通目からは私宛になっていたのでその後のやりとりを妹は知らないだろう。

母の葬儀後、
私「母の家の片付けがあるんだけど。」
妹「車を持っていないので・・・。」(行けません?やれません?)
私「役所でする手続きがあるんだけど。」
妹「平日は仕事なので・・・。」(行けません?やれません?)
と何事もやる気のない妹なので、今回の伯母の分骨についてもやる気はないだろう。
受信拒否は続けておこう。

何なん

『生前母から一度カリフォルニアの叔母さんに会いに行けと言われてましたが住所がわかりません。住所と連絡先を教えてください。』
今年に入って妹からショートメッセージが届いた。
昨年の母の納骨以来の連絡だ。

母にはアメリカに住む姉家族がいる。
私は30年以上前に遊びに行った。
母は20年くらい前に遊びに行った。
おそらく20年くらい前に妹に言ったんだろう。

なぜその時母に連絡先を聞かない。
母の世話や葬儀前後の手続き片付けには一切関知しなかったのに、なぜ20年以上連絡を取っていなかった私に今聞いてくる。

母のいいつけ(遺言?)を守ろうとでも思っているのだろうか。
母の姉は現在90代半ばだ。
なぜ今行こうと思うのか。
イラッとしたが住所と旦那さんのメールアドレスを書いて送った。

伯母の旦那さんは筆マメな人で昔はグリーティングカード、今はメールで近況報告を連絡を取っている日本の親戚数人に送ってくれる。
今年の正月にも連絡をくれた。
伯母の体調がすぐれないとあった。
だがそれを妹に説明するのも面倒だった。
おじさんにメール送って返事をもらってくれ、と思った。

1ヶ月くらいしてまた妹からショートメッセージが来た。
『おじさんから返信がありません。
お姉ちゃんにメールが来ていたら私が行くことを伝えてもらえたら助かります。』

6年前に伯母は旦那さんと最後になるだろうと日本に来た。
娘と孫が付き添って4人で来た。
伯母は兄弟2人と姉妹2人とその家族に会った。

私はちょうど抗がん剤治療中だったが、母が「誰もホテルの予約の仕方がわからないの。」というので、ホテル予約や車の予約や迎えに行く親戚のセッティングをヘロヘロになりながらして、最後の3日間琵琶湖の見える大津で伯母家族に会った。

母は妹にも声をかけたらしいが、参加しなかった。
自分のやりたくないことは完全に無視するのに、やりたいときには一方的にお願いする姿勢が私は気に入らなかった。

6年前に伯母家族が日本に来た時、伯母の娘(いとこ)のメールアドレスで連絡を取っていた。
その時以来いとことは連絡を取っていないが、アドレスが残っていたので、それを妹に送った。
『伯母さんの娘のメールアドレスです。彼女に聞いてください。』

ショートメッセージを送った後、妹の番号を『この発信者を着信拒否』に変えた。
これでイラッとすることもなくなるだろう。


両替

昨年から引き続き片付けをしている。
ある時、土産物の大きい靴下の中から米ドル紙幣が何枚か出てきた。

「いつか海外に行くだろうから両替はしないでおこう。」
昔は旅行から帰ってきても再両替せずにいた。
靴下の中なら泥棒も分からないだろう。
と、靴下に入れてそれを押し入れの奥に入れたまま忘れていた。

結局10数年海外に行けてない。
まあ、人生いろいろあるからな。

1月にマヤちゃんがスイスから帰省した時に東京に会いに行った。
ご両親のお見舞いに押し入れから見つかった100ドル紙幣を渡した。
すると、マヤちゃんが、
「今、昔の100ドル札って使えないらしいわよ!」
と言った。
なんと!

とっても浦島太郎な気分だった。
調べると2世代前の顔が小さい100ドル紙幣は完全にアウトのようだった。
私が持っていたのは2003年製造の印字がある。顔は大きいが白いお札だ。
青みがあるのが現行のものらしい。

「東京の方が両替しやすいだろうから試してみて。」
と私はマヤちゃんに100ドル札を託した。

数日後、『やっと空港で両替で来たわ!』というメールが来た。
これは何度か両替を試して断られ、やっと両替できたのか。
それとも時間が無くてやっと両替する時間ができたのか。どっちだ。

私は前者だと思い『何度も試してくれてありがとう!』と返信した。

で、先日時間が出来たので、名古屋駅の両替所に残りの米ドル札を持って行った。
名古屋まで行って、両替できずに泣いて帰るのはイヤだったので、行く前に電話で両替出来るか尋ねた。
「基本的に1981年以降のものでしたら大丈夫です。」
との返事だった。
持っている紙幣は1981年以降のものだった。ほっとした。

両替は問題なく出来た。良かった。
円安のおかげで少し得した気分になった。
だが、お金を持ってても使えなくなるということを学んだ。

確かに日本でも旧札は機械で読み取ってもらえないし、コンビニで偽札と間違えられるという話も聞くしなあ。

お金を靴下に入れてしまうのはやめよう。

で、片づけていると、日本の記念硬貨というものも何枚か出てきた。
だいたい500円玉で15枚くらいあった。

これは、価値があるのか?と買取屋さんに持って行ってみた。
「みんなプレミアありませんので、銀行で両替するのがいいですよ。」
笑いながら返された。
あらま。

これらも機械でも読み取ってもらえないし、普通に使うには偽物と疑われる。
10枚以上は手数料がかかるというので2回に分けて銀行で両替した。(せこい)

旧札と記念硬貨の両替で時代の流れを感じた。
これからはキャッシュレスの時代なんだなー。


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幸運の2ドル札だけ残してしまった。

2アーティストに思う

QUEEN+ADAM LAMBERTの日本ツアーの動画がたくさんYOUTUBEにあがっている。
便利な時代になったもんだ。
ありがたく他の地方のQALのコンサートを鑑賞させてもらっている。

YOUTUBEを観ていたらマイケル・モンロー(以下モンちゃん)の画像が出てきた。
東京のライブハウスで格子状の壁を歌いながら後ろまで伝っていく画像だった。
なんだ、これは。

モンちゃんはHANOI ROCKSのボーカルだった。
40年前にHANOI ROCKSは聴いていた。
そのモンちゃんが日本に来ていたようだ。

QALがの11日の間で4都市の公演をおこなっている間にモンちゃんは4日連続で3都市の公演をしていた。凄い。
モンちゃん61歳。

動画を観ると、あまり変わっていない。
昔は華奢だったが二の腕が鍛えてワイルドになっていた。

QALといいモンちゃんといい40年前に聴いていた人達が今でも変わらずに活動しているのを見ると、”ありがとう”と思ってしまう。
なぜだろう。

元気でいてくれてありがとう。
変わらないでいてくれてありがとう。
昔を思い出させてくれてありがとう。
続けてくれてありがとう。
いろいろなありがとうかな。

6年前、抗がん剤治療が終わって放射線治療に移る頃、突然HANOI ROCKSが聴きたくなった。
ずっと聴いてなかったのに何故か聴きたくなってベストを買った。
病院まで片道約15分。
放射線治療の25日間往復HANOI ROCKSを聴いた。
モンちゃんに会うことはないだろうが、「あの時はお世話になりました。」と言いたいなあ。

放射線治療が終わってやっと動けるようになった頃、映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観て一気に元気になった。
結局13回くらい観に行った。
QALにも「あの時はお世話になりました。」といいたいなあ。

このQALとモンちゃんが次回も来日することがあったらコンサートに行きたい。
それまでは私も彼らのように体を鍛えておかねば。

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